山口家の物語



 富士屋ホテル最後の同族社長であった山口堅吉とその家族には、数奇な物語がありました。
 堅吉の妻、貞子は、家の竣工から2年後の昭和7年、39歳の若さで亡くなります。その後、堅吉は後妻の千代子をむかえますが、その娘、裕子(やすこ)もまた39歳で亡くなります。不思議な偶然でした。その結果、この家は、堅吉と裕子の婿、祐司という2人の家主と、貞子、千代子、裕子と祐司の後妻、順子という4人の女主人によって、住み継がれたのです。

 富士屋ホテルは、貞子の父である山口仙之助によって1878(明治11)年に創業した、現存する日本最古のホテルです。仙之助には1人の息子と3人の娘がいましたが、経営を盤石なものとするため、3人娘全員に婿をとりました。2代目は長男の修一郎ですが、長女の婿である3代目の山口正造が事実上の2代目とされる理由です。昭和19年、正造の死に伴い、富士屋ホテルを継いだ4代目が堅吉でした。
 富士屋ホテルの歴史を紐解くと、創業者の仙之助と並んで、破天荒でユニークな個性の持ち主だった正造のことが多く語られています。それに比較して、堅吉は地味な印象があります。しかし、正造の始めた富士屋自動車の実務を担当し、箱根近代交通の基礎を築いたのも、太平洋戦争の末期から戦後の占領期にかけて、ホテルの舵取りをしたのも堅吉でした。また、関東大震災、太平洋戦争という困難な時代、宮ノ下や大平台のあった温泉村(昭和30年に箱根町に合併)の村長も務めています。生真面目で我慢強く、天才肌の義兄、正造を尊敬し、そのホテル経営を実直に継承した堅吉がいなかったなら、富士屋ホテルの歴史は今に続かなかったかもしれません。

 娘婿の祐司は、戦後いち早く、コーネル大学ホテル経営学部大学院を卒業。同族経営が終焉した後も富士屋ホテルの経営陣にとどまり、理論派の経営者として活躍しました。「ホスピタリティ」という言葉と概念を日本に根付かせた立役者でもあります。
 そして、裕子と祐司の娘、由美は旅行作家として、『箱根富士屋ホテル物語』『百年の品格 クラシックホテルの歩き方』『アマン伝説』など数多くの著書を執筆しています。
 大平台の山口家は、富士屋ホテルの歴史と共にあった家であると同時に、日本のホスピタリティ産業の歴史を生きた家でもあるのです。
 館内には、プライベートアルバムから抜粋した貴重な写真や資料、家族が使用した食器などが展示してあります。

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